「それじゃ、あらためてよろしくね祐一君。ボクは月宮あゆだよ、七年ぶりの再会だねっ」
と、祐一にそう切り出したあゆを見て、祐無は人知れず胸を撫で下ろした。
名雪とあゆ、この二人に納得してもらうことは難関だったのだが、両者とも無事に理解を示してくれた。
名雪は黙って俯いているが、自分の気持ちを整理するのに時間がかかっているだけで、じきに落ち着くだろう。
半狂乱になって泣き怒られる可能性も考えていた祐無にとって、それは僥倖だった。
だが、水瀬家の三人娘と相沢姉弟が相互理解するためには、少なくともあとひとつ、最終関門とも言える問題があった。
「さて、と。真琴は、今の話わかった?」
席を立った祐無は、ソファの後ろに回り込むようにして真琴に話しかけた。
真琴もそれに振り向いたので、二人はソファの背もたれ越しに会話する格好になる。
「あぅ……だいたいは。でも、なんでアンタたちはそんな面倒なことをしてたの?」
「それは難しい話になるから、今はナシ。それでもどうしても聞きたいって言うんなら、あとでまたゆっくりとね。それよりどう? びっくりした?」
「あ、当たり前じゃないのよぅ。祐一が別人で、しかも女だったなんて言われたら、びっくりするに決まってるじゃない」
「それはそうだろうけど……じゃあさ、真琴は、私が女だったら何か困ることでもあるの?」
「……え?」
「ほら、何もないでしょう?」
祐無は頭が良く、機転も利く人間だ。
どう言えば真琴を簡単に丸め込めるのかをよく考え、流れを組み立てて、その通りに話を進めていっている。
「これからは性別の違いなんて気にしなくていいから何の問題もなく一緒に寝られるし、少女漫画の話もできるし、いいことばかりだと思わない?」
「……思う」
「でしょ? だったらそんなふうに黙ってないで、難しいことは考えずに元気に笑っててよ。真琴には、その方が似合ってるから」
「うん、そーよね! やっぱり真琴は元気がイチバン――――」
「えぇっ!? 祐一君、ボクのこと覚えてないのぉっ!?」
「祐一、そんなの嘘だよね!? 私のことまでわからないだなんて、そんなのいつもの悪ふざけだよね!?」
「え……? なに、どうしたの?」
「……やっぱりこうなっちゃったか」
祐無が危惧していた最終関門とは、つまりコレだ。
本当の意味で話の中心となる人物の祐一は、あゆはのことはおろか、名雪のことすらまったく覚えていない。
それは、二人の少女に絶望を抱かせるには充分すぎる事実だった。
また一から頑張ろう。
あゆはそう決心したはずなのに、本物の祐一は自分のことを覚えていないのだから。
これではイチからの再開どころの話ではなく、完全なゼロからの再スタートとなってしまう。
名雪も、前向きなあゆを見て無理矢理「私も頑張らなきゃ」と気持ちを奮い立たせた直後だった。
丁度その瞬間に出鼻を挫かれては、仕方がないかと納得できるはずがない。
となれば二人の怒りの矛先は、ごく自然なかたちで祐無に向かうことになる。
「ゆうい……じゃなかった。……あれ? そういえば祐一君のお姉さん、まだ名前言ってなかったよね?」
「あっ、そういえばそうだね。私、いとこなのにまだ名前も知らないよ」
しかし元々、二人は根っからの善人で人を怒るということに慣れていない。
どんな些細なことであれ、わずかな疑問にぶつかりでもすれば、彼女達の気持ちはそちらに傾いていく。
元々が八つ当たりの感情であるとは言え、怒りを持続させることができないのだ。
それが彼女達の美点であり、ある意味では難点でもあった。
「ねぇお姉さん。お姉さん本当の名前はなんていうの?」
「あ、それ私も知りたいな。親戚なんだし、呼び合うときは名前じゃないと」
「真琴も知りた〜い!」
「う…………」
たった数秒前の自分のことすら忘れて、二人の態度は祐無に対して友好的なものになっていた。
だがしかし、祐無は言葉に窮してしまっていた。
特に立場が悪くなっているというわけでもなければ、困惑しているわけでもない。
だがそれでも、祐無はしばらくの間、声が出せずにいた。
本当の名前を聞く。
名前で呼び合う。
たったそれだけのことが、どれだけ彼女を救うことになるのか。
それは、彼女の境遇を知る祐一にも解らないことだ。
それどころか、実はもう昼食の準備が終わっていて、台所から温かく見守っている(または覗いている)大人二人にも、計り知ることのできないことだった。
「姉さん。ほら、ちゃんと答えてやらないと」
祐一が気を利かせて、祐無の背中を軽く押した。
たったそれだけのことで、祐無の気持ちは随分と楽になる。
昔は忌み嫌われ、毛嫌いしていたこの名前。
でも今となってはかけがえのない、本当の自分の名前。
それを尋ねられ、答えることで、そう呼ばれるようになる。
それは、とても嬉しいことだ。
だから……泣いちゃいけない。
今日、嬉し涙を流すべきなのは私じゃない。祐一だ。
そう自分に言い聞かせて、溢れかけていた涙を拭って、彼女ははっきりとこう言った。
「私は……ユウナ、っていいます。祐一と同じ『祐』に、『ない』っていう漢字を書いて『祐無』です」
そう言って、彼女はわずかに潤んだ瞳のままで儚げな微笑を浮かべた。
言えたという達成感と、これからはみんなから自分の名前で呼んでもらえるという期待。
決して泣くまいという気丈な心と、この瞬間から芽生えていく確かな友情。
それら色々な感情を表したその笑顔は、弟から見ても同じ女性から見ても、とても綺麗で眩しいものだった。
「祐無さんだね。それじゃあよろしく、祐無さん」
「これから、改めてよろしくね、祐無さん」
「うん、よろしく……真琴も」
「よろしくね、ユウナ!」
ひょっとしたら今日一番の難関は、あゆでも名雪でも祐一でもなく、自分自身だったのかもしれない。
一瞬、そんな考えが祐無の脳裏を掠めたが、すぐに忘れることにした。
よくよく考えてみれば、初めからそうだったのだ。
この後はきっと、自分の出生と災厄の力の話もしなければならないだろう。
どう考えても、これが一番重たい話なのだから。
「ただ、私祐一と双子で同い年だから、名雪には祐一と同じように呼び捨てで呼んで欲しいな」
「うん、わかったよ〜」
了承しながら、名雪は祐無ににっこりと微笑み返した。
それに釣られて、祐無もまた同じように微笑む。
十数分前までの雰囲気はどこへやら、今の水瀬家のリビング一帯はとても和んでいた。
「さて、話もひと段落ついたみたいだし、お昼にしましょ!」
「姉さん……聞き耳を立てていたことを大っぴらにするのはどうかと……」
そしてそのまま、最年長の鶴の一声により昼食会が始まった。
それから数時間が経ち、午後の四時を少し回った頃、相沢家の家長である相沢零治が水瀬家前に到着した。
引越し・転入・その他諸々、様々な手続きを終えて、ようやく落ち着けたのがこの時間というわけだ。
彼はインターホンを鳴らしておきながら、返事も待たずに玄関から入ってきた。
勝手知ったる何とやら、お邪魔しますの一言を呟きつつ客人用のスリッパを自分で出して履き、一瞬も迷うことなくリビングの扉に手を掛ける。
実のところ、彼は一度、祐無を預ける前にここ、水瀬家を訪れている。
四ヶ月程度の時間では、彼の記憶を薄れさせるのには不充分だった。
「失礼ですが、勝手に上がらせてもらいました」
「いえ。お気になさらないで下さい」
ドアを開けながら宣言した零治に、秋子は即座に反応した。
嫁の妹と姉の夫の間柄にしては、奇妙なほどに息が合っている。
事実、秋子以外の人間は、妻の祐子でさえ零治の突然の出現に驚いていた。
「あっ、お父さんっ!」
秋子の次に反応したのは祐無で、彼女は軽く走り寄った後、三ヶ月ぶりに会う父の胸に飛び込んでいた。
「久しぶりだな祐無。今日は大丈夫だったか?」
「うん、なんとか。びっくりしたけど嬉しかったよ」
「そうか、それは良かった」
「いや、あんまりよくはないんだけどね……?」
昨今では年頃の娘が父親に抱く図などありえないと言っていいが、二人は確かに抱きしめ合っていた。
が、それも流石に数秒で離れる。
祐無の次には、祐子が歩み寄っていた。
「お疲れ様。全部大丈夫だった?」
「ああ、多少の問題はあったが上手くいった。大丈夫だ」
「そう」
祐一と祐無が通うことになる学校にはかなり無茶な要求を出したのだが、礼金の話題を出したらすんなりと話が進んだ。
公立高校だったらこうはいかないが、幸いにしてそこは私立だったので『相沢』からの礼金ということですぐに動いてくれた。
愛娘のことに関しては、零治には遠慮するつもりなんてまったくない。
「お久しぶりです、伯父さん」
「おお、名雪ちゃんか。祐無と同い年だから当たり前とは言え、大きくなった――――」
「義兄さん、一先ずお掛けになってはどうですか?」
「ん? ああ、すまない」
家族や親戚と会った瞬間はどの家庭でも立ったまま話をしてしまいがちで、それは経済界の頂点に立つ男とて例外ではなかった。
いやそもそも、彼の場合は「お掛け下さい」の一言なしで椅子に座ることに慣れていない。
「さてと。ようやく観客が揃ったことだし……祐無、祐一のこと、よろしくね」
「あ、うん。任せて」
本日何度目かの祐子の鶴の一声で、ソファに座ったままだった祐一の前に祐無が膝立ちになった。
そうして視点の高さを合わせて、祐一の顔に触れやすいようにする。
「? 何を始めるんだ?」
「何って、祐無のチカラで祐一の記憶を戻してもらうのよ。あゆちゃんの無事が確認できてるんだから、もう忘れてる必要はないでしょ?」
「それはそうなんだろうが……そんなことまでできるのか!?」
「それは、見てのお楽しみ。なんでか知らないけどあの子は自信たっぷりだし、今は信じることにしましょう」
「祐一君の、記憶が戻る……」
「あゆちゃん……」
「うぐ、なに?」
「……負けないからね、私」
「ボ、ボクだって!」
「うんっ。だから、お互い頑張ろうね」
「あぅ……記憶かぁ……。祐無って、真琴の記憶は戻せないのかなぁ……」
「でも真琴は、祐一さんの場合と違って、思い出さないほうがいいかもしれないわよ?」
「うん……。そうかもしれないけど……」
「真琴は、今の生活に何か不満でもあるの?」
「ないっ! ないわよ、そんなのっ!」
「だったらいいじゃない。『水瀬』真琴のままでも。ね?」
様々な想いを秘めながら見守る六人の観客の前で、祐一はこの街の、七年前の記憶を取り戻した。
「赤い、雪……?」